翌朝顔を合わせたファラは気持ち悪いくらいいつも通りだった。まるで昨夜のことなどなかったかのような笑顔に違和感を覚えつつも愚痴を言えば、
「なんか調子悪かったみたい。ごめんね」
と、やはり変わらぬ笑顔で答えるのだ。「調子悪かったって……」追いつめられるほど空元気を出してきたやつが、いまさら俺にあたるか?
納得が行かず首を捻る。言及しかけたリッドを遮って、ファラはあわてた様子で手を振った。
「あ、今日もおじいさん手伝わなきゃいけないんだった。じゃあねリッド!」
「おい、ファラ!」
伸ばした手は空を切り、ファラは振り返らなかった。
「あー、くそっ……」
ぐしゃぐしゃと頭を掻いて苛立ちを逃がす。
消化不良の不快感が燻っていた。しかしファラを追いかける気にはなれなかった。どうしてもファラが秘めたいというなら、わざわざ詮索してやるべきではない。どうせファラは、ファラ自身が自覚しているよりずっとわかりやすいのだ、少なくともリッドにとっては。
昨日のままなら何が何でも吐かせただろうが、今日の様子ならもう少し経過を見よう。しつこく掘り返して仇にならないとも限らない。そう思っていた。
が。
「ごめんね、今日は用事があるの」
「その日は道場なんだ」
「ちょっとお腹が痛くて」
「ミンツまで買い出しに行かなきゃいけなくてね」
「ええと……とにかくダメ!」
なんだ。なんなんだこれは。
「……いい加減にしろよファラ」
あの手この手で飯の誘いをのらりくらりと躱されてもう何日目だ。いい加減頭に血の昇ったリッドは、ついにファラを物理的に追い詰めた。
ファラの背後には壁。顔の左右に両手をついて、正面にはリッドの体躯。もうこれで逃げられないだろう。逃がすつもりもない。
「俺が何かしたのか? そうなら謝るし、そうじゃないならきちんと話してくれ」
「な……なんの話?」
「とぼけるな。どう考えても最近のお前おかしいだろ」
ファラは視線を泳がせた。「お、おかしくないよ」
リッドのこめかみが引き攣った。この期に及んでまだしらを切るつもりなのか。
「じゃあなんで目も合わせられねぇんだ?」
「目くらいちゃんと見れるよ」
そうくちびるを尖らせるくせにファラの視線は地に落ちていて、「あのなあ……」「もういいでしょ、わたしはリッドと違って暇じゃないの!」「俺だって今日のぶんの狩り放り出してここにいんだよ!」「じゃあさっさと森に戻ればいいじゃない!」「お前っ――」
強く、ファラの肩を壁に押し付けていたのはほとんど無意識で、乱暴ともいえるその所作にようやくファラの目がリッドを捉える。驚きに見開かれたふたつの目が、こちらを見る。
握った肩は力加減を誤ればすぐにでも壊してしまえそうなくらい細かった。こんな華奢な身体を投げ打って戦っているのだ、この馬鹿な幼馴染は。そう考えたら、諦めていたはずのファラの無鉄砲さにまで怒りは沸いて、知らず両手に力が入る。
リッドは叩きつけるように叫んだ。
「いいか、俺は心配してんだ! お前はすぐ無茶して悩まなくていいことまでひとりで悩んで抱え込んで我慢して! 自分を犠牲にすればみんな幸せだとか、んな馬鹿なことばっか考えてんじゃねぇぞ!」
言ってやった。肩で息をしながらリッドはそう心の中でつぶやく。
けれど達成感や高揚感はまるでなかった。かわりに感じたのは、小さな胸のざわつきだった。波立つように、ささくれ立つように、嚥下させようとするたびに生まれる微かな違和感。
ファラは、茫然とリッドを見つめていた。時間を忘れたかのごとくすべての動きを止めて、見開いたままの双眸をリッドに据えていた。
やがて。
ファラが、くちびるを噛んだ。次に顔をゆがませて、苦痛に耐えるような――
泣きそうな、顔を。
ぎょっとしたリッドが言葉を継ぐよりも、ファラがリッドを突き飛ばす方がはやかった。
咄嗟のことに反応できないリッドは固い地面に腰を打ちつける。痛みは感じなかった。ただファラから目が離せずにいた。
「リッドは何もわかってない!」
裏返った声で叫んだファラが返事を待たずに踵を返す。
ああ、お前はそんな顔をしてまで泣かないんだな――呆けたように白い思考のなか、駆けていくファラを見送りながらそんな感想だけがふつりと浮かんだ。
わかってない。なにをだよ。俺はたぶん、お前以上にお前のことわかってるよ。だからほっとけねぇんだろ。
「……あー……」
背中を地面に倒して空を仰いだ。穏やかな昼下がり、眩く暖かな陽光はリッドをあざ笑ってほどけていく。
罪悪感。
自分を閉ざすように両腕で顔を覆う。あんな顔をさせるつもりじゃなかった。どこで間違えたんだ俺は。何が間違っていたんだ。
くそ、と悪態を吐き捨てたとき、すぐそばに誰かの気配があることに気がついた。もちろんファラが戻ってきたなんて淡い期待はなく、投げやりに向けた視線の先にはファラとは似ても似つかない枯れた老人の姿があった。
「……なんだよ、じいさんか」
ファラの隣の家の爺だ。ひとつ吐息して、リッドは皮肉なほど澄み渡る空に視線を戻した。
「なんの用だ? ファラならどっかいっちまったよ」
「お前、ファラが好きなのか」
「は――」
がば、と起き上がっていた。「な、いや、いきなりなに言って、」陸に打ち上げられた魚のごとくくちを開閉させるが伝えたいことはなにひとつ言葉にならない。目を回すリッドとは対照的に、老人は静かにリッドの返答を待っていた。
……そりゃ、そんなの、決まってるだろ。
「好き、だよ」
やっとのことでそれだけを吐き出した。大切な、大切な想いのはずなのにそれはやけに空虚に響いて、リッドの頭がすうっと冷えた。
「好きで、大事だ。悪いかよ」
自分の言葉を噛みしめる。気づいたときからそこにあった、空気と同じくらい自然に、当たり前に付き合ってきた感情。吐露することなどはたしてあるのだろうかと自分自身ですら訝っていたというのに、こんなところで、ファラ以外に打ち明ける日がくるなんて。
リッドの頭は驚くほど冷め切っていた。自嘲する笑みが浮かぶほどに。
この気持ちの向かう先にいるはずの人間を傷つけた。それは疑いようのない事実だ。この期に及んで都合の良い解釈のできるよすががどこにあるだろう。
幾らこの思いを丁寧に仕舞い込んで大切に守ってみたって、ファラにあんな顔をさせたら何の意味もないのに。
じいさんは視線を落として、しゃがれた声で喉をふるわせた。
「安心したよ。わしにとってもファラは孫娘のようでな。目に入れても痛くないとはこういうことじゃろうて」
「何が言いたいんだよ」
「リッド、お前に教えてやりたいことがある」
不審に目を細めたリッドにも、じいさんは動じなかった。動じずに、静かに、少しだけ話をして。
リッドは、ゆっくりとまぶたを閉ざした。
→3