さあ、夕飯の支度をしなくちゃ。少女は浮かれながら貯蔵庫を確認する。

お料理の勉強をきちんとしてきて良かったと心から思う。屋敷にいたときは花嫁修業なんて面倒で大嫌いだったけど、こうしてきちんと役に立つときがくるのだ。屋敷に戻ったら心を入れ替えて、お裁縫やお洗濯もちゃんと学ぼう――


「ううん、もしこのままリッドさんとお付き合いできたりしたら、帰らなくてもいいんだから」


そんなくすぐったい妄想にも、まだ若い少女はきゃっと顔を赤らめた。

リッドさんはあまり笑ったりしてくれないから、嫌われてるのかな? なんて不安になったこともあったけれど、作った食事はきれいにたいらげて、「ごちそうさまでした」と手まで合わせてくれる。それに、リッドさんとの仲を疑ったファラさんという幼馴染のひと。あのひとが教えてくれたのだ。リッドさんはあまり女の人に慣れていないから照れてるだけ、きっと大丈夫だよ、と。

村の人に、リッドさんにはファラさんがいるから、諦めてはやく帰った方がいいよと笑われて、カッとなってひどいことを言ってしまったけれど、本当のところは心配することなんてひとつもなかったし、ファラさんはとっても良い人だった。今日だって……。

がたり。
物思いに耽っていた少女の背後で、音がした。村長さんだろうか。台所を一手に引き受けてから、村長さんがここにくることなんてなかったのだけど。


「どうしたんですか、今日はファラさん直伝のオムレツで――」


言いながら振り向いて、少女は呼吸を飲み込んだ。

ゆらりと、逆光を背負って立つその人影が誰なのか一瞬本気でわからなかった。もとよりひんやりとした暗室の温度が急激に下がったように全身が粟立ち、恐怖で竦んだ足が絡まった。近くにあった木箱に踵がぶつかって、少女は逃げ場を見失う。

一歩、こちらへ踏み出される靴底が荒い砂を踏みしめる。じゃりり。些末なはずのその音が暴力的だと感じてふるえが走るのは、眼前に迫る想いびとの、せい。

どうして。なんで。軽い恐慌状態でまともな思考が働かない少女の目の前に、眼光だけが赤く光るリッドさんは立っていた。


「ファラが、なんだって」


感情の一切が抜け落ちた声が、ただ事実を確認する響きで投げかけられる。その瞳だけが燃えていた。


「答えろよ。ファラがなんだって」


表情も声も、まっさらなその様子は、明らかに常軌を逸していた。少なくともこの一週間、ずっと少女が見つめてきたリッドさんではなかった。


「リッド、さ、ん?」


声が掠れてうまくでない。眩暈がする。緊張感が張り付いた乾いた喉を無理やり嚥下させる。それでも何も言えなかった。この場から逃げ出したいのに身体は縛り付けられたように言うことを聞いてくれない。怖い。浮かぶのはそれだけだった。

しばらく少女を見下ろしていたリッドさんは、薄くくちびるを開く。


「ファラに何をした」
「……なに、って」
「言い方を変えたほうがいいか? 何日か前、ファラの頬を張ったのは本当か」


思わず少女の顔が強張ったのを、たぶん、リッドさんは見逃してくれなかった。すうっと細くなる眼光に気づいた少女は、慌てて言い繕う。


「ち、違うんです、あれは本当に悪いことをしたなって思ってて、ちゃんとファラさんにも謝りました。ファラさんだって笑っていいよって言ってくれて、」
「ならどうしてあいつの様子はおかしいままなんだ」
「……そんなの……」


そんなの知らない。

どうして自分は責められているのだろう。こんなに唐突に、状況も飲み込めないまま様子のおかしいリッドさんに糾弾されて。そもそもリッドさんの問いの背後にあるものがなんなのか、あまりにも不透明だ。彼はいったい何を言いたいのだろう。何に憤っているのだろう。

少女の瞳に涙と――わずかな怒りが浮かんだ。

徐々に熱くなる腹の底。理不尽な敵愾心(てきがいしん)にさらされていることにはもちろんだけど、その発端がひとりの女性であることに、少女の憤懣は加速度的に膨れ上がる。

わたしは何も悪くない。
きっ、と少女はリッドさんを睨(ね)めつけた。


「わたし、なにも知らないし、聞かれたってわかりません。だってファラさんはわたしを応援してくれるって言ったんです。今朝だってリッドさんの好きなオムレツの作り方を教えてくれて、わたしが知ってるのはそれだけです」
「…………」
「ファラさん言ってました、リッドさんのことはただの幼馴染だって! だから頑張ってねって、わたしに言ってくれました!」


すべて紛うことのない事実だ。ファラさんに聞いたって同じ言葉が返ってくるに違いない。……彼女が嘘でもつかない限りは。

ファラさんは、わたしの前で良い顔をしておきながら、リッドさんには泣きつきでもしたのだろうか。「リッドに幸せになってほしくて頑張って応援してみたけど、やっぱりリッドが好きなの」なんて悲劇のヒロインぶって、同情を誘ったのだろうか。

むかむかする。吐きそうだ。汚い感情が、思考が、少女のすべてを塗りつぶしていく。


「それともなに、ファラさんは我慢してたとでも言いたいんですか? それならファラさんはわたしに嘘を吐いたことになりますよね、“リッドのことは何とも思ってない”って確かに言ったんですから! それなのにわたしが責められるんですか? わたしが悪者なんですか? そんなの、どう考えたっておかしいわ!」


女というのは浅ましい生き物だ。こうして対峙しているリッドさんよりも、今もどこかで笑っているであろうファラさんへの厭忌ばかりが積もっていく。


「リッドさんが好きなら最初からそう言えばいいじゃない。わたしに言わずにリッドさんに縋りつくなんてあまりに卑怯よ。リッドさんはそんな卑怯なファラさんが好きなんですか? わたしよりずっとリッドさんに近い場所にいるくせに、きちんとわたしと戦わずにリッドさん本人に告げ口なんてずるい、最低ッ――」


思いつく限りの罵詈雑言を、ここにはいないファラさんに叩きつけてやろうと思った。醜く濁った感情をすべて吐き出して、ファラさんとは違う、まっさらできれいな自分になりたかった。
だけど。

気づいたら一瞬、聴覚が飛んでいた。

それはどのくらいのことだったのだろう。本当に一秒にも満たない時間だったのか、それとも忘れていた呼吸が生命の危機をもたらすほど長い時間だったのか。ようやく鼓膜がわずかな振動音にゆれて、少女は目玉だけを左方向へと注いだ。

土壁とはいえ、乾ききって硬化しているはずのそこにめり込む、右手があった。


「もう、黙ってくれ」


思い出したようにぱらりと肩に落ちてくる壁の破片。同時に、音を見失うほどの威力で叩き込まれていた拳から、一筋の血液が伝う。

さあっと、頭から血の気が引くのがわかった。

浅く俯いたリッドさんは、もうこちらを見ていなかった。どこか夢に浮かされているような、しかし研ぎ澄まされた鋭利な視線は、少女の向こう側のなにかに注がれていた。


「たぶん、次は外せない」


ぽつりと。
こぼされた、温度のない言葉に、ぞっとした。

リッドさんが、かすれた声で囁く。


「たとえあんたの言うことがすべて真実でも――ファラがあんたに、俺のことをどんなふうに言っていたとしても、俺はファラを卑怯だなんて思わない。あいつは、俺に何も言わない。助けを求めることなんてしない。俺が幾ら望んでも、あいつは、ファラは、絶対に、俺の名を、呼ばない」


それは、少女に伝えようとして吐き出される言葉ではない気が、した。


「いいんだ。あいつにとって俺がなんであれ、もう、俺には関係ねぇんだ。あいつが俺を必要としないなら、俺はあいつの意思を汲んだりしない。――勝手にやる」


ゆっくりと、リッドさんが右手を引いた。抉れ、剥がれた土がもう一度少女の肩に落ちる。

彼の節くれだった指の関節あたりに血が滲んでいた。そっと少女の頬に触れたのは、逆に血の気の失せた、手のひらのほう。


「ただの八つ当たりかもな。でも、どうしても」


そうして初めて、リッドさんの顔に表情というものが浮かぶ。

自虐的な笑みが、浮かぶ。



「俺はあんたが許せない」



リッドさんの細い五指が、少女の喉を破ろうと食い込んだ。




*****



もしかしたらわたしは、変わらないものが欲しかったのかもしれない。ずっとずっと、いつまでも同じ時間が続けばいいと、心のどこかで願っていたのかもしれない。

永遠なんて、あるはずもないのに。




ラシュアンの森の奥で、物見やぐらから見上げる空は高い。爽やかな風が髪をさらっていくけれど、ファラの心にかかる靄を晴らしてはくれない。


「なんであんなこと言うのよ……」


思い出すのは、リッドにひとりで抱え込むなと怒鳴られた、つい先刻のこと。

あのときできることなら言い返してやりたかった。実際、のどのところまで出かかっていた。こんな気持ち、リッドに言えるわけないじゃない、と。

あの女の子は、ちょっと自分の気持ちに素直すぎるだけで、とても良い子だった。リッドとはただの幼馴染で、きっとリッドはあなたのような女の子を好きになるよと告げた途端、花が咲くようにぱっと表情が明るくなる様子は、本当に可愛らしくて。だから、ぜひ応援してあげたいと思った。彼女の恋を実らせてあげたい。本心からそう思ったはずなのに。


「ファラさんは好きなひとととかいないんですか?」
「え?」
「リッドさんとファラさんって、恋人と間違われるくらい仲が良いんでしょう? もしリッドさんに本当の恋人ができたらきっと寂しくなると思うんです。だから、リッドさん以外の良いひとを……」


リッドに恋人ができたら、わたしはひとりになる。

よく考えれば、ファラにはキールもメルディも、村の人もみんないるのに、咄嗟に思ってしまった。感じてしまった。


(いやだ)


足もとから這い上がってくる孤独の恐怖。けたけたと笑いながら、舐めるようにファラに絡みつく、どこか覚えのある感触。


(いやだ。いかないで)


そう願うのは、ただの我儘だ。身勝手でひとりよがりな、リッドに押し付けていいはずのないねがいごと。


(ああ、わたしは)


リッドにはリッドの人生がある。好きなひとと一緒にいる権利がある。リッドは優しいから、たとえどんなにファラが間違っていても、面倒くさがりながらも付き合ってくれる。誰かを蔑ろにしてでもきっと、ファラの隣にいてくれる。そんな優しさに甘え続けていた自分に気づいて、恥ずかしくなって。


(リッドを、離してあげないといけない)


空は青くて風が心地良い。それだけで笑いあえていた、ぬるま湯のような幸せだけに満たされていたこどもの頃のままならば何も考えなくてよかったのに、わたしたちはもう、大人になってしまったから。

つないだ手は、いつかほどける。
それが今だというのなら、はやく心を決めないと苦しいだけだ。

でもそれは簡単なことではなくて。とてもとても、難しいことで。

リッドの幸せを願う自分とリッドのそばにいたいという駄々の折り合いを一晩で上手くつけられるはずもなく、まさかうちにくるなんて思っても見なかったリッドの前で取り乱したりもした。それでも必死に立て直したはずだったのに、どうして。どうしてリッドは簡単にわたしを揺さぶるの。

やぐらの中で、ファラは蹲り腕の中で顔を伏せる。さやさやと木の葉が歌い、風はファラの髪をどうしてもさらおうと必死になる。ばたばたと音がする。静かなのにうるさい、ファラだけの世界は涙が出そうなくらい心地がいい。

そんな空間を打ち砕いたのは、絹を裂くような少女の悲鳴だった。

驚いてあたりを見回すと、遥か向こうへ駆けていく、あの少女の姿があった。足をもつれさせながら、死に物狂いで何かから逃げる少女。

ファラは慌てて物見やぐらを降り、少女の向かった方角へと彼女を追いかけていた。一体何があったというのだろう。誰かに襲われたとでも言うような、尋常でないふうだった――


「ファラ」


考えに耽っていたファラの腕を、ぐん、と引く手に、声も出ないほど驚いた。


「リッド、なんでここに……?」


見たところ狩りの途中というわけでもなさそうだ。訝るファラに、リッドは短く「お前を探してた」と答えた。


「わたしを? なんで……」
「話がある」
「後じゃだめ? さっき女の子が――」
「あいつなら心配ない。俺のせいだから」
「リッドの、せい? どういうこと?」


ファラが眉根を寄せても、リッドの表情は変わらなかった。不自然なまでに落ち着いていた。

問いに答える代わりに放り投げられたのは、思ってもみない言葉だった。


「お前、俺の気持ち考えたことあるか」


ざぁ、と、一際強い風が吹き抜ける。
リッドの気持ち。どくんと、心臓がひとつ大きく鳴った。


「たとえば俺のこと好きだって言うやつが出てくるとするだろ。それを知ったらお前、そいつに頑張れ、大丈夫だよって言うんじゃねぇのか」


たとえ話なんかじゃない。まさに今の状況だ。


「俺が言いたいのはさ、」


戸惑うファラを、リッドの目がまっすぐに射抜く。


「俺がそいつのこと好きになれない可能性とか……そもそも俺に好きなやつがいる可能性とか、考えたことあるか、ってことだよ」


静かな、とても静かなリッドの声が、ラシュアンの風に溶けて消えた。

リッドの言葉を丁寧に浚って咀嚼したファラの心臓がゆっくりと、けれど確実に速くなる。


「……リッド、好きなひと、いるの?」


まるで泣きそうな声が情けなくてたまらなくて、でも問わずにはいられなくて、ファラはリッドを見た。リッドはどこか諦観したような、そんな顔をしていた。


「いる」


世界が、ひっくり返った気がした。

音が消える。
心音だけが確かに聞こえる。
リッドがすぐそこにいる。
いるけれど遠くなる。
目の前が、暗くなる。


「そう……なんだ」声がふるえた。そんなつもりじゃないのにやけに語尾が弱弱しくて、「そっか。はは。ごめんね。今まで、ほんとにごめん。わたし、たくさん、たくさん、無神経なことばっかりで。迷惑とか、しちゃいけないこととか、きっと、リッドにたくさん、」笑顔を繕ったはずなのに、うまくできなくて。


あふれた涙しずくが喉まで締め上げ、潤む視界はすべてを曖昧に溶かしていくから、「っ…………」思わずうなだれて、隠しきれない嗚咽と一緒に涙を隠した。

なぜわたしは泣いているんだろう。なにが悲しいというんだろう。わからないままで構わないから、このまま泣いて泣いてそのまま消えてしまえたらいいと、強く思った。

リッドの手がそこにあった。その体温に縋るように自分の指を絡めかけて、ファラは自身に絶望する。こんなときまで無意識のうちにリッドを求めてしまう自分が浅ましかった。


「なあファラ、あんまり鈍いのも残酷だってわかれよ。その涙は“幼馴染のリッドをたくさん傷つけた”からか?」


リッドが、ファラの手を握る。少し低い、諦めたはずのぬくもりがファラを包む。


「何とも思ってないとか、ただの幼馴染とか、お前にそう言われるのはもう慣れたと思ってたけど、やっぱ堪える」


苦笑するリッドが何を言っているのか、泣き濡れたファラには理解ができない。だってそのままの意味をとったら、まるで――まるでリッドは、ファラのことを。

そっと、リッドの手が頬に添えられた。壊れ物を扱うような優しさで顔が引き上げられる。抵抗する力もなくて、ファラはされるがままに従った。

涙で歪んだ視界はやっぱりうまく機能していなくて、だから反応できなかった。

くちびるに触れたのは、誰かの吐息と、やわらかなもの。

驚いて瞬きをした拍子に涙はこぼれて、遮るもののなくなったファラの目には、閉じたリッドのまぶたが映った。

夢だと言われてもきっと信じてしまう。それくらい短くて、ほんとうに触れるだけの、胸が壊れるようなキス。


「好きだよ、ファラ」


まつ毛が瞬(しばた)く音すら聞こえそうな距離で、リッドは穏やかにそうささやいた。


「ずっと、俺はファラが好きだ」


ゆるり、ファラの輪郭を名残を惜しむように撫でたリッドの手が、離れていく。


「ごめんな」


なにが。
なにがごめんなの。

きっと今、ファラはひどい顔をしているんだろう。涙でぐしゃぐしゃで髪は乱れて、好きなひとに到底見せられるような状態じゃない。それでも袖口で乱暴に目元をぬぐって、ファラに背を向け立ち去ろうとするリッドの姿をその目に捉える。

謝らないといけないのはファラの方なのに。傷つけてごめん。困らせてごめん。心配かけてごめん。リッドの気持ちから――自分の気持ちから逃げててごめん。

たぶんファラは、無意識に目を逸らしていたのだと思う。現実が怖くて、変わることが恐ろしくて、このまま曖昧な日々が続けばいいと思っていた。きっとリッドよりもよっぽど、“今”を壊したくないと願っていた。

でも気づいてしまった。失いかけて、やっとことの重大さを直視した。

どうか届きますように。受け取ってくれますように。拙いかもしれないけれど、伝えられますように。ままごとみたいなキスひとつで、こんなに胸が痛くて嬉しくて幸せで死んじゃいそうになるひと、きっとリッドの他にいないから。

大きく伸ばしたファラの右手は、リッドの手を掴んだ。




僕らが生きていくための恋



14/03/17