「リッドさんのことが好きなんですか」


肌に触れる空気は暖かく、澄んだ空に浮かぶ雲が穏やかに流されていく。ラシュアンにとっては普段通りの、寧日のことだった。


「え、っと」


藁を縛り上げていたファラの前に現れたのは、メルディよりももっとゆるくうねる亜麻色の髪をレースのついたリボンでふたつに束ねた可愛らしい女の子。きっとどこか良い家のお嬢さんなんだろう、着ているものからも立ち姿からも、この田舎の村には似つかわしくない上品さが漂っていた。

少女は高い踵の靴が土で汚れないように気にしつつ、しゃがんでいたファラを見下ろした。太陽を背負う彼女の顔は陰り、ふたつの瞳だけが爛々として存在感と敵意を放つ。

どちらさま、と問いかけて、最初にぶつけられた少女の言葉がよぎり、ファラの眉が意識しないうちに顰められる。


「リッドが……どうかしたの?」


まさかリッドがこの女の子にひどいことでもしたのだろうか。リッドにそんな真似ができるとは思わないけど――いや、リッドに傷つけられた云々の話なら、“好きなんですか”なんて疑問には繋がらないだろうか。

頭のなかの無数の疑問符を追いかけていたファラは、少女が握ったこぶしが小さくふるえているのを見つけた。まさしく“わなわな”と、怒りを抑え込むようにふるえるその小さく綺麗な手。ファラは青ざめる。こんなに憤っているということは、やっぱりリッドが何か失礼なことを――

咄嗟に謝罪を紡いだつもりの声は、けれど意味を成すことはなかった。

ぱちんと。
少女の右手がファラの左頬を叩いたから。

道場に通うファラにとって羽虫が偶然ぶつかったに等しい衝撃。先輩たちに投げられたり張り倒されたりする日常を思えば子供だましみたいな力だ。そんな生易しい殴打にも中途半端に首はぶれて、ファラの目は一瞬空中を彷徨う。


「あなたがいるから、」


左の頬に触れたら、じんと熱を帯びていた。

きっとこの頬と同じくらい、いや、もしかしたらこれよりもっと確かな熱をたたえる少女の瞳は、怒りだけでない激しい感情を浮かべていた。


「あなたがいるから、リッドさんは幸せになれないのよ!」


髪を振り乱して少女が踵を返す。きらりと散った光は、きっと。


「あーあ、大丈夫かいな」
「あ、えっと」


柔らかな土に足をとられながら逃げるように走る少女の背中を茫然と見送っていたファラは、一緒に作業をしていたおじいさんに慌てて笑顔を繕った。


「な、なんだったんだろ! リッドが何かしたのかな、もしそうなら懲らしめてこないと!」
「あの嬢ちゃん、王都からリッドを追いかけてきたらしいぞ」
「……王都から?」
「なんでもちょっと前にリッドが王都へ行っておったとき、足をくじいたあのお嬢ちゃんと出会って、屋敷まで運んでやったんだと。で、一週間ほど前から村長の家に滞在しとる」


一週間と言えば、ちょうどファラの道場の合宿が始まったタイミングだ。今朝戻ったファラが知らないのも納得じゃな、とおじいさんは心得顔で頷く。


「じゃが、肝心のリッドが全く良い顔をせんらしくてなあ。あの御嬢さんは、おそらくお前さんとリッドの仲を怪しんでわざわざ嫉妬しにきたんじゃろ。いやはや、恋とはまことに恐ろしいもんじゃの」
「わ、わたしとリッドが!?」


鍛えられた腹筋から飛び出した素っ頓狂な声は、思ったよりも大きく響いた。少し遠くで人参を抜いていたおばさんが何事かと顔を上げるから、ファラは顔を赤らめて小さくなった。おじいさんに顔を寄せ声をひそめて、


「リッドはただの幼馴染だよ。やきもち焼く必要なんてないのに。わたし、ちょっとあの子に本当のこと伝えてくる」


勘違いさせたままなんてかわいそうだ。あの女の子はあんなに一生懸命だったのに。きっとリッドだって、恥ずかしがっているだけに違いない。


「しかしファラ、リッドは……」


なぜだろう、全然痛くなんてないはずの叩かれた頬がじくじくと疼いている気がしていた。その不快な感覚を振り切るように、おじいさんの声を置き去りにして、ファラは駆け出していた。




*****




疲れた。

大木に背を預けたまま、リッドは魂まで吐き出すような長い長い溜息をつき空を見上げた。茜色の光がようよう夜に飲み込まれようとしているのがわかる。

全身どころか精神すら苛む疲労の原因は、王都で知り合ったあの少女である。

たまたま出逢って、歩けないとか言うからちょっと手を貸してやっただけで、やれ命の恩人だ運命の出会いだと意味の分からないことを並べ立てられ、力づくで王都への滞在を強要されそうになり慌てて逃げ出しことなきを得た、はずだった。あれからひと月ほどたった先日、リッドの前に満面喜色で現れたあのときの少女は、今度は足が治ったから礼をしにきたのだとのたまった。

――が、何をしてくれるのかと思えば 獲物を狩るところが見てみたいだとか一緒に飯が食いたいだとかはたしてリッドになんの得があるのかというようなことばかりで、リッドにとっては顔すらほとんど覚えてなかったレベルで興味のない女に四六時中つきまとわれているという認識である。甚だ迷惑。甚だ面倒。疲れる。疲れた。もう嫌だ。


「ファラのオムレツが食いてえな……」


木の幹に頭を預け呟いた声は、我ながら情けない涙声だった。

少女は村長の家に滞在している。たぶん金でも握らされたのであろう村長はひどくご機嫌顔で、ここのところ毎日リッドを食事に誘ってくる。もちろん少女同席で、だ。

すべて少女が作ったのだという料理は、彼女の誇らしげな笑顔と釣り合う程度には確かにうまい。でもなにか違うのだ。昔、キールに「腹に入ればなんでも一緒だ」と豪語したのは確かに自分だけれど。でもリッドが今、一番食べたいのは。


「そういえばあいつ、今日帰ってくるって……」


はっと頭をよぎったのは、一週間前から道場に籠っているはずの幼馴染の曇りない笑顔と、彼女の作る温かな料理たち。

途端にきゅうと自己主張を始めた腹を押さえて、リッドは驚くほど軽くなった足をラシュアンに向けた。

一週間もリッドに好物を我慢させた罰だ、今日はなにがなんでもファラのオムレツを食ってやる。そう思ったら笑みまで浮かんできて、焦れるような気持ちでファラの家を目指した。

熱々でふわふわの卵と、甘味と酸味が絶妙に合わさったケチャップ、それが皿の上でひとつになってリッドを待っている。そこにそっとファラがスプーンを添えるのだ。ほんとにリッドはオムレツが好きなんだから、なんて苦笑して。


「ファラ!」


さながら飼い主の帰りを待ちわびていた忠犬の如き勢いで素朴なつくりの扉を容赦なく跳ね開けて――

リッドは、動きを止める。
真っ暗だった。

まだ帰ってきてなかったのだろうか。首を捻るが、一週間後の昼には帰るからと言っていたはずだ。たぶん覚え間違いではない。

高揚していた気持ちが急速にしぼんでいく。肩を落とし、ファラを探しに行こうと踵を返しかけて、


「……リッド?」


部屋の奥から聞えた小さな声が聴覚に引っかかった。


「なんだファラ、いたのか」


面白いくらい単純に自分のぱっと声と表情が明るくなるのがわかって自分のことながら苦笑が続く。

だってもう腹の具合が限界なのだ。はやく。はやくはやくはやく。期待で知らず大きくなる歩幅はあっという間にファラの寝室の前にたどり着き、躊躇いなく扉の取っ手に手をかける。


「寝てたのか? もう夕飯の時間だぞ、さっさとオムレツ――」
「開けないでッ!」


リッドの動きを制したのは、切り裂くような悲鳴だった。
文字通り懇願するような、悲鳴。

ファラの取り乱した声を聞いたのはいったい何度目だろう。しかもそれが鋭い刃をかたどってリッドに向けられるなんてこと、はたして今まであっただろうか。

一瞬で凍りついた空気はリッドの身体の自由をも奪っていた。膠着した世界で、それでもリッドはファラに問うた。


「……どう、したんだよ」


はりついた喉が掠れた声を生む。ファラまで届いているのかわからないくらい小さな声となって空気をゆらす。そのゆらぎすらどこか恐怖を煽って、リッドは瞬きを忘れた瞳を夜闇に凝らした。


「ファラ、何かあったのか」


ふたりを隔てるのは薄っぺらい木の扉一枚だけ。渾身の力でかかればきっとあっけなく破れるはずの障壁の向こうを、持ちうる感覚のすべてで探る。

しかしリッドが感じ取れたのはファラの微かな呼吸の音と、


「ごめん、今日は帰って。……ごめん」


無機質でふるえる、そんな囁きだけだった。


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