ばかー、と間延びした声が響いていた。
クリーム色で透過された世界は砂糖でできているみたいだった。なにもかもの輪郭がふわふわと揺れていて、自分は夢のなかにいるのだとぼんやり理解する。
少し離れたところに三人の子どもがしゃがみこんでいた。青い頭がふたつ、水色の頭がひとつ。水色はほかのふたりよりも少し背が高い。
「ばかっ、違うよそこはまっすぐだよー!」
「違わない! そんなところに窓なんていらないもん!」
「こーら、ふたりとも喧嘩しない」
水色がくすくすと笑う。どうやら三人でひとつの絵を完成させようとしているらしかった。
砂糖じかけの風景は胸の奥がきゅうと狭くなるくらい甘いにおいで満ちていた。そのにおいは愛おしいような懐かしさを内包しているはずなのに、なぜか記憶の水底からこぽりと泡が湧き立って、琥太郎の心がざわめいた。
きゃっきゃと無邪気にはしゃぐ彼らは琥太郎に背を向けていてどんな顔をしているかはうかがえない。それでよかったと思った。見えてしまったらきっと――きっと俺は。
無意識に口もとを手で覆っていた。守ろうとしたのか、それとも拒絶しようとしたのか自分でもわからなかった。わけのわからない焦燥感がのどまでせり上がってきて呼吸と心臓を圧迫し、濁った声がかすかに漏れた。
自己との葛藤からふと我に返ったとき、いつのまにか目の前にある背中はひとつだけになっていて、琥太郎は瞠目した。
やめろ。
じりと後ずさる。
彼女は今、ひとりで絵を描いていた。琥太郎に背中を向けているのには変わりがなく、こちらの存在にも気がついていないらしい。こどもらしい丸みの際立つフォルムの右腕がやけに必死に動いていた。
一生懸命で、いつも笑顔で、そんな彼女が本当に、大切だった。とても大切で、大切にしたくて、だからこそ大切にする方法を見誤ってしまった。そんな過去が渦を巻いて琥太郎を息のできない海の底へと引きずり込む。呼吸が苦しい。窒息してしまいそうなくらい。
その名前に救いを求めようとしたとき、遮るように声が聞こえた。
「こた……にい、は……しあわせ、に、」
没頭しているのだろう、自分がなにかを声に出していることすら本人は気づいていないに違いない。そのくらいの熱心さで彼女は夢中に何かを描いて――否、書き綴っている。
「しあわせに、なって、いいんだ……よ」
その言葉を聴覚がとらえた瞬間に心臓を貫いた痛みの数値はきっと、どんな演算式でも表せなかっただろう。
言葉にできない音がくちびるから呼気となってこぼれおちる。有李と呼んだはずなのに、舌の上ですべて解けて消えてしまう。嫌だ。届いて。どうか。もう一度だけでいいから。きみに、懺悔を。
「ばかだな、こたにい。もういいんだよ」
ゆっくりとこちらを仰いだ彼女は、朗らかに笑っていた。
「ね、こたにい」
砂糖菓子の世界で、砂糖菓子みたいな少女は屈託のない笑みを満面に広げて。
夢だということはもはや失念していた。潤む視界を振り払うように強く瞬きをしたのは、ただの一秒でも長く有李の姿を網膜に焼き付けて記憶に残したかったからだ。琥太郎に向けられている失くしたはずの笑顔をこの腕に閉じ込めて永遠にしてしまおうと、琥太郎は咄嗟に少女へと手を伸ばす。
けれど所詮はすべてが夢のなかのおとぎ話だと、有李を抱きしめ五官すべてが彼女で満たされたと感じた瞬間、眼前に広がった見覚えのある天井の風景を前に琥太郎は身を以て理解した。
「…………っ」
珠を結んだ汗が顎のラインを滑り落ちた。息が荒くて目を眇めて深呼吸すると、酷使されていたのであろう肺が鈍痛を訴えた。
ひとりきりの部屋のなか。変わらぬ朝の風景。白いシーツにちらばる無造作にのばした自分の髪をなんとはなしに持ち上げてみて、すぐに飽きてぱたりと腕ごとベッドに落とす。中途半端な固さのマットに衝撃は吸収されて、その感触でこれが現実なのだと把握に及ぶ。
生ぬるいシーツに沈んだ琥太郎はシャツの腕で両のまぶたを覆いながら細く長く息を吐き出した。
暗闇に閉ざされた視野に少女の姿を浮かべようとするのに、かろうじて思い出せるのはぼやけた輪郭だけだった。薄目を開けて、高い天井に手を伸ばしてみる。あの天井よりももっと近いところに有李はいて、その姿ははっきりと見えていたはずだったのに。
もういいんだよ。大切な少女がくれたはずの魔法の言葉も、単なる俺の願望だった。なにもかも夢だったんだ。たちの悪い、悪趣味な。
どうして俺はあのとき有李を受け入れなかったんだろう。どうして俺はあのとき臆病に逃げたんだろう。どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
「……こたにいって、呼んでくれないの。有李」
もう一度、あの頃みたいに笑って。そう思う自分はやっぱり救われたいと心のどこかで願っているんだと気がついてしまって、琥太郎はきつく目を閉じ醜悪な己の本性から意識を逸らした。
泣いても星には届かない
title:春告げチーリン
130308