ふれる。そこにある小さな身体に指先を伸ばす。ただそれだけのことが、ガイにはひどく難しい。
少し前まで、この恐怖のはじまりなんて思いあたりもしなかった。でも今は記憶がある。姉上のぬくもり。散る鮮血。ガイを覆い隠すようにして息絶えたメイドの、もはや体重とは呼べない、質量。
ふるえを意志の力でねじ伏せようと何度も試みた。そのたびに脳裏をよぎる姉上たちの最期が、ガイの意識を一瞬で塗りつぶす。
どうしたら。どうしたら俺は。
右の手のひらで顔を覆った。「っ……」情けなくて言葉も出なくて、呼吸だけが苛立ちを訴える。彼女にぶつけても仕方がないのに。そんな自分にまた嫌気がさして、血の失せた左手を爪を立てて握りこむ。こんなちっぽけな痛みでも、あれば少しは許される気がして。
「……ほんっと、馬鹿なんだから」
三歩ぶんの距離の向こうで、アニスが笑った。小さな身体に似つかわしくない大きな決意とかなしみをその背中に隠しているなんておくびにも出さず、彼女は呆れたように笑みを浮かべる。
本当ならガイがアニスを支えてやらなければならないのに。年端もいかないうちに、アニスはおとなの振る舞いを覚えすぎてしまった。甘えたくても甘えられないなら、周りが――ガイが甘えさせてやらなければいけないのに、過去がそれをゆるさない。
一歩。アニスがこちらへ踏み出す。
「怖いんでしょ、失くすのが」
迷いのないまっすぐな瞳は、ガイの心臓に突き刺さる。
二歩。こつりと踵が囁いた。
「だからアニスちゃんにもさわれない。失くした記憶と重なるから」
一呼吸で踏み越えられる境界線。ガイを見上げるアニスはもう、腕を回せば抱き寄せられる距離にいた。
抱きしめたい気持ちより逃げだしたい衝動が勝っていると告げたら、アニスはどんな顔をするんだろう。やっぱりガイみたいな男やだ、と吐き捨てて離れて行ってくれるなら、それでも良いと思えた。寒いからと手を繋ぐことも、悲しみを分かち合うために抱きしめることも、想いをこめてくちづけることもままならない。そんなふたりをはたして恋人と呼べるのだろうか。
だからガイは、アニスが選ぶのならどんな選択でも従おうと思っていた。三歩ぶんの安全地帯をアニスがあっけなく飛び越えてきたのと同じように、届かなくなるのもきっと一瞬のことだから。
けれど、少女は凛と声を張った。
「あたしは消えない」
あたしはきえない。言葉の意味を咀嚼するよりはやく、強い意志を宿してアニスは続けた。
「死なないし、いなくならない。だってあたしだったら、ガイが死にそうになったらガイを放って逃げるもん」
いたずらに細められるアニスの目は、真摯といえるほど凪いでいた。まるで鏡のように静かな双眸のなかに見つけた自分の顔は、笑えるくらい惨めで、哀れで――泣きそうで。
「だから、大丈夫だよ。さわってもへいき。信じて。あたしを信じて」
力みすぎて血の気の失せた左手に、小さなぬくもり。見なくてもわかった。アニスの体温だ。記憶の中の姉上と同じ、優しいひとのぬくもり。姉上と違うのは、まだそこにあること。あり続けること。
これが物語のハッピーエンドなら、悪い魔法は解けて、ガイはアニスに祝福のキスをして幕は下りる。でもこれはちっぽけな人間のありふれた人生の一ページでしかない。ガイのふるえは止まらないし、引けた腰は情けない。王子さまには到底なれない。
それでも、ガイはアニスの手をとった。かっこよくなんてまるでなくて、きっと今にも泣きだしそうな顔をしているだろうし、ふるえは十分すぎるほどアニスに伝わっているんだろう。けれどアニスは笑わなかった。弱弱しく、必死にアニスの手を包むガイの手を見下ろして、それから見上げて、馬鹿なんだからと言いたげに微笑んで。
「……ガイのわりには頑張ったんじゃない?」
そう紡いだのは、かすかに涙の滲む声だった。
まるであしたの光のよう
14/02/26