デクス×アリス







「アリスちゃん怪我したって……!」


扉を叩き破る勢いで部屋に転がり込んできたデクスの顔は真っ青だった。額から流れる汗と荒い呼吸が、彼がどれほど全力でここまで来たのかを図々しいくらい訴えていた。

ベッドの上で上半身を起こし、くだらない恋愛ものの小説を斜め読みしていたアリスはうんざりとデクスを見やる。デクスは予想通り、アリスの額にまかれた白い包帯を視認するなり目を白黒させて、


「それ、大丈夫、けが、傷とか、誰が!」
「何言ってるのか全然わかんない」


意味をなさない単語の羅列がぼとぼと落ちて転がって、しかしそれらを拾ってやる優しさや心遣いなんてものは、アリスとは無縁にある。


「ああアリスちゃん、ごめんよ守ってあげられなくて。痛くない? なにか欲しいものは? 医者にはちゃんと見せたのかい?」


半泣きになりながら詰め寄ってくるデクスにはため息をひとつ押し付けて、ちょうど山場だった小説に視線を戻した。どうせ大丈夫だなんだと答えても大きなお世話でしかない気遣いは続くのだ。

アリスが読んでいたのは、思いを寄せていた男には婚約者がいて、女の気持ちにはどうしても答えられないと告げかけたところで、女が「なにもいわないで」と泣きながら男にキスをする、そんな場面。


「ねえアリスちゃん、お願いだからもう危ないことしないでよ。俺はアリスちゃんが心配なんだよ。俺が代わりに何でもするから、だからお願い、アリスちゃん――」


本を読んでいようが何をしていようが関係なくデクスの小言が際限を知らないのはいつものことで、デクスの懇願がアリスの神経を逆なでてくるのもいつものことだ。あんたごときにとやかく言われたところでアリスちゃんがはいそうですかと反省するとでも思ってるの。もしそうなら軽んじられている自分に腹が煮える。デクスは黙ってわたしの後ろを尻尾振ってついてくるだけでいいのに。

黙らせたい。そう思ったアリスに魔が差したのは、たぶん、積もりに積もったそんな不満たちのせい。

アリスはデクスを見た。ベッドの下に膝をついてこちらを見上げるデクスはさながら飼い主に叱られた犬のよう。ペットにこんなことする趣味はないんだけれど、なんて心の内側でつぶやいてから、伸ばした右手で今だお願いを続けるデクスの顎を乱暴に引き寄せた。

アリスちゃん、と驚いた声は最初の二文字で消え失せた。奪った、と言った方が正しいか。アリスの名前は、アリスのくちびるが飲み込んでしまったから。

キスの経験なんてなかった。しかし身体の一部を触れ合わせるだけの行為に知識が必要だとも思えないし、そもそもキスに特別な何かを求めるほどおめでたくもない。突然の出来事に目を閉じることもできず石のように硬直するデクスと違って、アリスの感想は「こんなものか」という冷めたものだった。

たぶん、世界でいちばんアリスの心に近い人間。そんなデクスとのくちづけにすら少しの高鳴りも見せないこの心臓を、喜ぶべきなのか、それとも。


(ああ、ばかなこと)


思考することすら自分への裏切りであることに気がついて、アリスは苛立った。ようやく我に返ったデクスがアリスを引きはがそうと身をよじったことにさらに苛立ちは増して、デクスが逃げられないよう長い藍の髪をひっつかんだ。そのときにはもう、アリスはまぶたを閉じていた。きつく。

捻じ込んだ舌はあっけないほど簡単にデクスの咥内に滑り込んだ。驚いたデクスが声を上げようとくちを開きかけたせいだろう。間抜けなやつ。

熱いくらいの体温が舌先を焦がしていた。引っ込んでいたデクスの舌を無理やりに引きずり出して絡ませる。やわらかにふれあう舌の感触はすぐに曖昧になって、境界線は溶けてなくなった。

距離をとるためにアリスの腕をつかんでいたはずのデクスの手に、徐々に力が入るのがわかった。

ねえ今、あんたなに考えてるの。
何も映さない閉じたまぶたの裏に問いかける。

気持ちがいいの。
わたしを抱きたいの。
それとも、どうにかされたいの。
ひとり遊びの問答はひどく滑稽で、内心でせせら笑いが漏れる。

こんな唾を吐きあうだけの行為に、あんたはなにを求めているの。

舐めあうようにあわせていた舌に、アリスは鋭く歯をたてた。


「ッ!」


突き飛ばしたデクスの喉から漏れた声にならない悲鳴。まだ夢から醒めきっていないような顔でこちらを見上げるデクスの唇から、細く血の糸が垂れる。少し強く噛みすぎただろうか。酷薄な笑みが知らず浮かんだ。


「今度うるさくしたら、また同じことするわよ」


我ながら普段通りのなんでもない、少しだけ笑みを含んだ声だった。

恋情に駆られて交わすくちづけにアリスが得られるものなど何もないと、くちのなかでデクスの唾液と血の残滓を転がしながら思った。甘さなんて欠片もない、ただの躾。仕置きのひとつ。アリスには――アリスとデクスには、キスなんてそんなものでいい。それくらいでいい。





熱を捨ててまどろんで





140304