八瀬博臣×新庄愛


ぼとりと 質量をもった柔らかな何かが地面に落ちる音がして、博臣は目を瞠る。ややもしたところで小柄な猫が背を丸めている。その向こうには壮年の男が針のようなものを手にして立っていた。男と博臣で猫を見つめているかたち。
空はもう暗い。青みが買った夜があたりに満ちようとしていて、月は明るい。良い夜だ。思わず白い息をはきながらぶらりと歩いてみようかと考え付くくらいには、冴えた空気が星を美しく透きとおらせる、良い夜。
綺麗な夜に、か細い猫の鳴き声が響く。身体をふるわせて、どうやら立ち上がろうとしているらしかった。滑らかな毛並みを染めるのは電燈の陰ではなかった。愛くるしい外見にそぐわず ぼたぼたと 凶悪な音をたててその体躯から滴るものの色は 赤。
男がにやりと笑う。嘲笑であることは明白だった。これほどに悪意の滲む笑顔というのも珍しい。まだやるのか、と男は言った。そんなになぶられるのが好きか、とも。
ああ この男が 彼女を傷つけたのか。
理解が及ぶと同時に、つま先は地面を蹴っていた。


もういいです。
そんな必死さの滲む制止の声で博臣は我に返った。気づけば自分の鼓動が、呼吸の音が、やけにうるさく聞こえていた。誰かが嫌がらせにそれらの音を鼓膜の内側で幾重にも増幅しているんじゃないかと思えるくらい煩くて、彼女の声が本物かどうか、一瞬わからなかった。
眼下には糸が切れた人形のように動かなくなった男が転がっていて、マフラーを強く握りすぎていた右手には不愉快な感触が残っていた。人を痛めつけた、嫌な感触。
「せん、ぱい?」
その声はやや下方から聞えてきた。振り返れば、博臣のズボンに縋り付くようにしてこちらを見上げる、細められた双眸がそこにあった。いつの間にひとの姿に戻ったのか それすらも気がつかなかった。頬を流れる汗にもそのときようやく気づいて、呼吸を整えることに意識をやりつつ、博臣はゆるく顔を振る。
「大丈夫か」
「そんなにたいした傷ではないんです。助けてくださって、ありがとうございました」
膝を折って目線を合わせると、彼女、新庄愛はふわりと笑った。
「ときどきいるんです。余所からきたせいで、わたしをただの妖夢だと勘違いしちゃうひと。いえ、ただの妖夢であることは間違いないんですけどね」
口早に言い訳めいたことを並べる表情は明るくて、それがなおさら顔色の悪さを際立たせていることにきっと当人は気づいていないのだろう。取り繕った笑顔から伝わってくるのは痛ましさばかりだ。
学校帰りであったのだろう制服は破れところどころから素肌がのぞく。さらにそこには赤黒い傷跡が刻まれているのだが、彼女はさりげなくそれを隠す。阿呆そうに見えてその実計算高いところを博臣は買っていたが、この時ばかりは神経を逆なでする原因でしかなかった。いらいらする。いらいらするいらいらするいらいらする。なぜこれほど不快なのだろう。わからない。わからないからくちびるを噛んだ。強く。
「先輩、どうして」不安そうにこちらを覗き込む白い頬をぬぐってやる。「そんな顔してるんですか……?」擦傷に滲んでいた血液が博臣の手を汚した。「そんな顔って、どんなの」無味な声に彼女はわずかに怯えを瞳に走らせて、「怖い顔、してます」小さく、そう呟いた。
怖い顔? そりゃあ怖くもなるだろう と博臣は口端を釣り上げる。だって彼女が傷ついた。こんな、得体のしれない男の手によって。
そこで、はたと、博臣は気がついた。気がついてしまった。不安げに博臣を見つめる小さな彼女に対して、自分がどんな感情を抱いているのか。
「俺は」喉が渇いて、声は干からびていた。心ばかりの唾液を飲み下して、博臣は彼女にそっと手を伸ばす。硬直した肩をそのまま引き寄せ、甘い香りと生ぬるいような血の香りを一緒に抱きしめた。強く、けれど傷が痛まないように細心の注意を払って。
「……俺は、」
吐き出した言葉はしかし続かなかった。この想いの名前の付け方がわからなかった。だから、博臣は柔らかな栗毛に顔を埋めた。きつく瞼を閉じて、その心音を感じながら、心の内だけで言葉を探した。
俺は。
俺は、たぶんきみが、大切なんだ、とても。



きみとぼくのゆくさきに

( 恋は眠る )


13/11/26