この感情をなんと表現したらいいのだろう。どろどろと水気を含んだ濁ったなにかが喉から胸へと沈んでいく。重く、重く、沈む。ティポがいなくて本当に良かったとエリーゼは心から思った。いたらきっと、素直なままに吐露される自分の気持ちの正体に打ちのめされていただろうから。
トリグラフ、ルドガーのマンション前の公園。心臓の音が届きそうなくらい静かで暖かな夜に、エリーゼはここでひとりの大人の心の声を聞いた。体格も年齢もエリーゼより一回りも大きいくせに、ふるえる声で居場所が欲しいとつぶやく彼は、帰り道を失ったひとりぼっちの子犬みたいで。
あのときのことは、エリーゼの中に秘密の宝物として綴じ込んである。目を閉じて胸をそっとおさえたら、それはきらきらと細かな光を散らしてまぶたの裏を彩るのだ。エリーゼとアルヴィンの、密かな密かな夜のお話。
そんなエリーゼにとって大切な場所に今アルヴィンがいる。あの夜アルヴィンが腰を下ろしていたブランコにはちゃんとアルヴィンの大きな体躯があって、けれどその隣、エリーゼの特等席だったそこに収まっているのは、エリーゼではなく、エリーゼも大好きなはずのひとりの少女。
「うーん、やっぱりこれじゃ甘いかなあ」
「おいレイア、もう一回取材に行くとか言うなよ」
「だってこのままじゃまた編集長に怒られちゃうよ。……よし、善は急げだよ、アルヴィン!」
「ちょっ、嘘だろニアケリア霊山なんてもう二度と登りたくねえーー」
茫漠としてふたりの背中を見つめていたエリーゼが逃げ去る暇もなく、元気よく立ち上がったレイアと引き留めるべくレイアの腕を掴むアルヴィンがこちらを振り返り、
「エリーゼ?」
ふたりの声が重なって、どろりとまた、濁った感情が滴るのが、わかった。
「どうしたのエリーゼ、ルドガーに用事?」
「ルドガーの奴ならまた分史世界に飛んでったぜ。戻ってくるまで時間がかかるだろうし、なんか甘いものでも一緒に食うか?」
「あーっ、そう言って逃げるつもりでしょ! 許さないんだからね!」
「ちっ……」
ひとりぼっちの迷子の小犬ほもうひとりじゃなくて、皮肉ぽくなんかじゃなくちゃんと笑ってそこにいるのに、それはとても喜ぶべきことなのに、悲しいことなんてひとつもないのに、ないはずなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう、にがいのだろう。
あんなにまばゆかったはずの思い出がくすんでいく。色あせていく。かわりにまぶたを押しのけあふれ出すのは、熱くて醜い心の欠片。
「エリ、」
驚いたアルヴィンの手がエリーゼの涙に触れようとした。咄嗟にひどく彼の手払った。ぱちんと、乾いた音が思った以上に大きくはじけた。アルヴィンの目が大きく開いて青く染まるーーあのときみたいな悲しい色に。
アルヴィンを傷つけた。その事実がもっとエリーゼを追いつめた。
違うんです。そんな顔をさせたかったわけじゃないんです。アルヴィンに居場所ができたことは本当に嬉しいんです。嘘じゃないんです。ひとりぼっちは寂しくて辛いから。その気持ちは痛いくらいわかるから。でも。でもね。
「あ……」
一番はわたしがよかったの。
「アルヴィンなんてだいっきらい!」
おいエリーゼと、アルヴィンの声が聞こえた。でも振り返らなかった。振り返れなかった。ただただ逃げた。もう見たくなかった。なにも。なにも見たくない聞きたくない考えたくない。
好きも嫌いもぜんぶ、どろどろの中に沈んで消えてくれたならきっと救われるのに、どんなに涙を流してもエリーゼはエリーゼのままで、それ以外のなにものにもなれやしないのだ。
ばいばいここはよるのそこ
14/02/23
title:春告げチーリン